野球、野球、野球!
私の青春は、一言で表現すれば野球への情熱そのものでした。
高校時代の私は、最優先で野球、次に野球、そして野球という生活でした。その後に控えている大学への進学とか、さらにその先の仕事、就職など眼中になく野球に打ち込んでいましたが・・・冷静にわが身を振り返ると、野球で人生設計を立てるには無理があることに気付きました。
大学では養鶏を専攻
大学進学といっても、野球だけにのめり込んでいた私には苦しい選択でしたが、先生や両親の勧めもあり、養鶏の専攻という養鶏後継者としては「エリートコース」を歩むことになりました。
大学での勉強は養鶏だけでもなく、牛の飼育といった研修農家での実習もありました。振り返れば決して無駄な勉強時間ではなかった訳ですが、養鶏の本当の勉強は、実際に就農した後からでした。
就農から経営委譲へ
就農した当時の養鶏業界は、一定レベル以上の生産さえしていれば、それなりに収入に不安もなく、経営が維持発展していける時代でした。いわゆるバブルが弾ける前の古き良き時代です。成鶏規模25,000羽程度で無理のない経営ができていたのだと思っていました。まだ、経営の中では、単純労働者としての位置づけだったので、経営内容には触れていませんでした。
平成8年、私も30歳を過ぎ、父から実質の経営委譲を言い渡されました。さて、フタを開けてみると、我が家の養鶏経営は、流動負債に悲鳴を上げている状態でした。父親に文句を言った記憶もありますが、とにかくこれを清算することに全力を注ぎ、3年間を要して借金を返済しました。
これを機会に、大幅な経営の見直しに取り組みました。
新しいリーダーとの出会い
採卵鶏経営では、飼料購入先と鶏卵販売先が同じ業者であるといった場面が多々見受けられます。我が家の経営も長年の付き合いがある特定の業者との取引が漫然と続いていました。
畜産の中でも計算が細かいといわれる採卵経営ですが、私はまずこの点に目をやりました。すると、生かさず殺さずの構図が見えてきたのです。長年のそれも父が築いてきた取引を一蹴するには勇気も決断も必要でしたが、経営委譲されたからには、自分の経営にしていこうという決意の下で、新しいグループの傘下に入ることにしました。
このグループでは、契約販売により安定した収入が得られるようになりました。使用していた飼料もグループに合わせ統一した内容の給餌をしています。また、そのリーダーの指導は、鶏舎の衛生管理は言うに及ばず、事務所の整理整頓までに及ぶものでした。現在もまだまだ指導を仰ぐところですが、それまでとは大きく視点が変わったことを感じました。
この経営の転機が訪れたのは平成8年でした。その後ほぼ10年が経ちますが、その間に鶏舎の改修や飼育技術の研鑽に取り組んできた結果、75,000羽の経営規模が確立できました。
今後の我が家の経営
昨今の養鶏業界を脅かしているのは、なんといっても鳥インフルエンザの問題です。正直なところこの先の養鶏業界が見えにくくなってしまっています。極端な想定をすれば、明日にも事件発生のニュースが流れるかもしれません。風評被害の大きさは、他県でのニュースからも伺い知ることができます。今はそういったことがないように祈って経営に打ち込むのみです。
私の経営では、自動販売機で若干の個別販売をしていますが、宅配等の地場売りはしていません。しかし、日々感じることは、鶏卵に対しての、あるいは養鶏に対しての情報の少なさと、そうしてしまっている生産サイドの責任です。
経営主として経営を拡大していくことも大切ですが、畜産を支持していただく皆さんを一人でも増やしていく努力を惜しまないようにすべき時代でもあると感じています。
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