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■但馬(兵庫)から松阪地域へ |
当時、牛といえば使役牛(農耕時に働く牛のこと)であり、伊勢平野の耕土が深く、耕地面積が広いため、田植え等の農耕作業には強健で性格が従順な牛が必要でした。オスは性格が凶暴で、農耕時の足も遅いことから、メスで紀州で育てられた但馬牛が最適とされていました。
但馬で生まれた子牛(新牛)は、その地域で盛んだったミカン農園で働くことで足腰の強い牛に育てられ、松阪地域で農耕用として飼育されました(太牛)。
3~4年間、農耕用に飼育されましたが、伊勢の温暖な地域では次第に太り、大阪方面に出荷されるようになりました。 |
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但馬生まれの子牛 (新牛) |
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紀州で1~2年 |
みかん農園で働くことで足腰の強い牛に |
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松阪地域へ |
農耕用として3~4年飼育(太牛) |
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伊勢平野は
耕土が深く
面積が広大 |
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強健で性格が従順な牛が育つ。
しかしオス牛は性格が凶暴で、農耕時の足が遅い。 |
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但馬産の
雌牛肥育 |
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松阪牛のもとになる但馬産の子牛は、鉄道機関のない時代は徒歩で運搬されました。子牛は、まずは和歌山紀ノ川の農村地域で育成された後、高見峠を越え、伊勢平野へと運ばれました。
松阪から伊勢の地域で育てられた牛は「伊勢牛」と呼ばれていましたが、昭和30年に宇治山田市が伊勢市に改称されたことで、業者の間で話し合われ、「松阪牛」と呼ぶことに統一されました。 |
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■但馬からの道のり |
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3~4年間農耕牛として使った後、1年間ほど肥育する形で取り組まれましたが、山間地では耕地面積が狭く痩せすぎないということで山間地の農家が中心に取り組まれました。
■松阪牛のふるさと
但馬から送り込まれた牛は、紀州地域から高見峠を越え、飯南町の深野地区で一時止めたことから、「松阪牛のふるさと」と称されており、今でも「松阪牛発祥地」の碑が建立されています。 |
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松阪市飯南町深野にある『松阪牛発祥地』の碑 |
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■1960年代に入ると・・・ |
農業機械が導入されるようになり、使役としての牛の役割はなくなり、子牛から肥育を手がけるようになりました。 |
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